昭和四十三年十二月三十日 朝の御理解
御神訓 「懐妊の時腹帯をするより 心に真の帯をせよ。」
 教祖様は、もう百年前に、このような事を教えておられます。現代の産婦人科の先生方は、腹帯をする事を勧めないそうですね。それの方が、結果がいいそうです。してみると医学は、ある意味合いに於て、迷信だと言う事が出来ますね。神様が教えて下さる事は、正しい事なんですけれども。人間の知恵から割り出したと言うものは、それは結果が必ずしも正しいとはかぎらない。その時には、本当と思うとっても、百年後には、この方が本当と言う行き方が生まれてくるのですから。
 言うなら、違った事を信じているんですから。言うなら、医学も本当な事じゃないのです。もっと本当な事があるのです、と言うような事が言えますね。ここで教祖がおっしゃる、心に真の帯をせよとは、どういう事であろうか。‥‥お互い信心させて頂いて、よしこの行き方でいけば間違いないぞと、段々確信が持てれるようになりますね。言うなら、懐妊のおかげを頂いた訳ですねえ。十月十日すれば、必ず産み出される。おかげは必ず間違いない。ところがその間違いのない、絶対と言うおかげがです。どっからか間違うてくる。
 いわゆる流産になっていきよる訳ですねえ。その流産の原因と言うか、本当のおかげが生み出されてこないと言うのは、どこに、どういう原因があるかと。心に真の帯をせよとは、どういう事であろうか。これはだから、実際妊婦に対する御理解であると同時に、私はおかげの懐妊、おかげの出産の御教でもあると思うのです。昨日年末のお礼に伊万里の方達が出てみえました。竹内先生が、昨日の朝の御理解を頂き終って、申されるのです。いつもの事ながら、ここの御理解には、もう恐れ入ってしまう。私も昨日は説きながら、これは大変な御理解だなあと思うた。
 竹内先生が高校時代、孟子を教えられる先生、孝子を教えられる先生と違ってたそうです、が二人の先生がある時、論争をされたそうです。どういう事が論争になったかと言うと、孟子を教えられる先生は、良心と本心を区別して説かれたそうです。ところが孝子を説かれる先生は、良心と本心をですね。同じだと説かれたそうです。その事で論争をされた。そういう例えば、論争が昨日の親先生の御理解を頂いとったら、解決するだろうにと言う訳です。京都なんかに行くと、山奥に籠もって、仏教の教学の研究をし、同時に実際の修行をしておられる方達がおられるそうですが。
 けれども先生、今朝の御理解のような事は説ききらんと言うのです。その一歩手前の何かしらんけれども、痒いところでもじかに掻くのでなくて、着物の上から掻きよるような、なんとはなしに分からない。いくら説いてもらっても説いておる者も分からなければ、聞いておる者も何か、こう分からない。そんなに難しい。それを、昨日の御理解をよくよく頂いとると、それをきれーいに説いてある訳です。私は、昨日、また竹内先生に聞いて頂いた事がありますから、そこの辺を少しお話しますと。例えばお芝居に太閤記の<十>段目と言うのがあります。
 明智光秀が謀反をするところのお芝居なんです。母親を木下藤吉郎と間違えて、風呂の中で竹槍で刺し殺すと言うお芝居。その時に光秀の妻のみさおが嘆くところがあります。戦に行く時、くれぐれ申し上げたのに、あなたがお聞きにならんから、こういう結果になりましたと。どうぞお母さんが亡くなられる今わのきわに、「本心に立ち返る」とひと言いうて下さいと、嘆くところがあります。いわゆる本心に立ち返る。そうすると、現在光秀が行うておる事は本心ではない。いわゆる謀反心と、こう言う訳ですねえ。本心はそういう心じゃないけれど。
 いわゆる私は、お芝居の筋から言うても、実際の歴史から言うてもです。もうどうでも光秀は、あそこでは、謀反を起こさなければならない羽目にあったのです。どうでもあそこで、主人である信長を討たねばならん羽目にあったのです。けれどもそれを、自分も謀反として周囲も又、謀反としておるから、結果が三日天下に終ったのです。あれが、もし私なら、あそこからおかげを受けただろうと言うのです。
 昨日の御理解は、そういう御理解でした。自分の心次第で、それが謀反にもなれば正しい事にもなる。例えて言うなら、私と親教会の場合も同じなんです。善導寺から、ようやく半道ぐらいの所で、人がどんどん助かるようになって行ったのですから。例えばこれが教会とか、人が助かる為と言うから、いいのですけれども。これが商売かなんかで、本店の方が魚屋さん、支店のあそこの番頭じゃったのが、たった半道位しか離れてない所で、魚屋を始めた。そしてどんどん大安売りするもんで、どんどん売れる。うちの番頭に、お得意さん取られてしまう。
 うちの番頭が謀反起こしたと言われても仕方がない。けれども人が助かる事の為に、お客さんに喜んで頂く事の為に、と言うところにです。焦点が置き換えられる。あああらねば、あああるのが自然。初めから主殺しをしょうと思わない。戦国時代から、歴史をひもといてもです。必ず、その討った、討たれた、討った、討たれたなんですから。そういう繰り返しなんです。兎に角殺さなければ殺される時代ですから。当然の事、自然がそういう風にあらしめた。自然がそういう風に、横道のようにあるけれども。そこから本当な道がついてくる。
 私共も、勿論お取次者になろうとは思わなかったし、自然が、ああいう事になってきた。ですから、あれを光秀が良心的であったら、ああいう事は出来なかったであろう。けれども、本心の方から見ると、そうするのが当り前の事になってくる。そこに良心を使う事はいらなくなってくる。まあ、そんな話をさせてもらったんですけれどもね。本心と良心は、成程、別々のようであり、結論は同じ。孝子の先生も孟子の先生も、それを論争される必要はなくなってくる。それをまとめるのが今日、ここに心に真の帯をせよと言う真の心なんです。
 言わばだから、真の心と言うのは、本心でもなからねば良心でもない。言わば光秀の考え方ひとつで、それを真の心と分かったらです。素晴らしいのです。いよいよ<良>い天下が治められたに違いないです。けれどもそれを、本心とか、良心でやった為に、ああいう事になった。真の心と言う事でしぼっていかにゃいかん。本心と言うものは、良心と言うのは、真の心とは違う。真心、真の帯をせよとおっしゃるのは、そういう事なんです。そこで、そんなら懐妊のおかげを頂いた時、信心させて頂いて、この行き方でいきゃ間違いないぞと。
 日々信心生活の中から、信心の喜びを分からしてもろうて、これなら必ず良いものが生み出されるぞと、こう確信持ってすすんでいきよる者が、いつかです。どこかで狂うてきておる。流産に終っとる。それはどういう事から、そんな事になるだろうか。いわゆる真の帯をしてないからなんです。本心であったり、良心であったりするからです。心に真の帯をする。この辺が一番大事なところですから。日頃いつも頂いておる事ですけれども。今日は前提として只今申しましたような事を、お話さしてもろうて、真の帯と言う事についてのおかげを頂きませんと。
 お互いが確かに懐妊の時、腹帯をしよる。けれども真の帯をしよらん。だからおかげが流産になっておると、言うのですから。そんなら、いよいよこの真の帯を追求していって、真の帯を締めなければならない。それは良心的な事とか、本心とか言う事とは違う。私は昨日、おととい、秋永先生、高橋さんを同道で、小倉へお参りしたですね。教務所へ御挨拶に出ましたですね。あれは、私の本心でもなからなければ、良心でもなかったのです。お参りせにゃあと言う、本心から出たものじゃなかったのです。もちろん良心的なものでもなかった。
 だから、その結果がかえっておかげだったと思うておる。ここのへんはなかなかデリケートですけれども。私共が小倉へ参りましたら、教務所は、その前の日が御用納めでおられませんでした。桂先生が、自分が言うておくから、事務所の方へ持って来たお歳暮は、ここん置いとったら、私からあげときましょうと言うので、お願いして帰ってきた。私はおかげ頂いたと思ってるんです。それは、私が真の行き方をしておるから、そう思えるのです。これが良心と本心でしたら、しもうた今日は、来損だったと言う事になるのです。それが帰りがけ、富永先生の所へ寄らして頂いて、いよいよはっきりしてくるのです。
 真の行き方と言うのは、いわゆる真の信心と言うのは、真の修行をしなければ、真の信心は分からないと言われておる。真の修行と言うのは、神様が、私共に求めたまう修行。自然が私共に求める修行。いわゆる成り行きを大事にせよ。それが真の修行。神様が求めたまう修行こそ、真の修行。これを受けていくと言う事が真の心なんだ。私の小倉行きは、そういうあれやらこれやらを、にらみ合わせてです。自然がそう求められたから、私は小倉行きをしたのです。向うにおられるとかおられないとか、そんな事は全然問題じゃなかったのです。
 善導寺の親教会に年末の二十一日に行くつもりであった。大抵親教会の事については、気を使わない若先生が、私がそれきり行かんもんですから、しょっちゅう言うのですよ。お父さんああたお歳暮に行かんでんいいですかと、年末のお礼に行かにゃと何遍でん言いました。やっぱりああして、ほりんごとしとるばってん、やっぱり思うてはくれておったんだなあと、私は思うのです。お歳暮をちゃんと用意しとる。それでも私が行かん。いわゆる私が、自然の時期をじーっと待っている訳なんです。ですから、例えて言うならです。ほんなこて、あそこは年末の挨拶にも出て来とらんと言われるよりもです。出て行ったがいいでしょうが、人間的には。けれども、言われるそげな事は問題じゃないです。私には、神様のお心に添うと言う事だけが、私には問題なんです。
 あれやらこれやら、ここにきちっとやらして頂く時期が来る。おかげで昨日、ブリが入手のおかげを頂いた。その通知を受けたから、今日お鏡さんも出来た。それとこれとを一緒に今日私は、年末のお礼に出ろうと思うておるのです。けれども、人間心を使う、良心を使いますとね。良心を使いますと、一日でも早う行かにゃおられんのです。それもなぜ二十一日に行く予定が、今日まで延びたか。二十一日に行くはずの予定でしたけれども。善導寺から電話がかかってきた。それが取るものも取り敢えず行かなきゃ間に合わない事であった。
 大体その時、お歳暮でん持って行かにゃならんのだけれども。用意が出来てなかった。そこのところで私は、今年のお歳暮は、遅れるなと感じたんです。だから遅れるなら遅れてもいいから、時期はいつだろうかと、いつも心の中に考えておった。いわゆる神ながらの時期と言うものを、じーっとみて、あれやらこれやら、たろうたところに、今日がおかげを頂いていく日になるだろうと思うのですけれどもね。いわゆる本当の行き方と言うのは、そういう行き方なんです。神様が遅くせろ、早くせろとは、おっしゃらんけれども。ちゃんとそこに、お繰り合わせを下さってある訳です。
 だからこちらが、いつも心を神様に向けとかんと、さあ今から行けとおっしゃっても、それが聞こえない。真の帯をせよと言うのはね。そういう自然が求めたまう。それは良い事、悪い事につけて、それを合掌して受けていくと言う行き方。そこんところがです。人間心を使う。いわゆる本心とか良心とか言うておるところへです。時期がすれ違いになって、おかげの方もすれ違いになって、頂かねばならないはずのおかげが流産になってしまう。
 ですからこれは、いよいよ合楽の信心のおかげを頂いておる人達が、もう誰一人知らん者はありますまい。成り行きを大事にせよと言う事。そしてそれを分かっておりながらです。成り行きを大事にしよらんです。成り行きを大事にするという事は、真の帯をする事だ。真の信心をするとは、それなんだ。自然とは、成り行きとは、そのままが神様のお心なんだ。神様の思いなんだ。だから神様の思いに添うていく事が、真の道を分からして頂く事なんだ。その上に、朝参りもよかろう、水行もよかろう。場合によっては、断食もよかろうと言う事になってくるのであって、真の道を分からして頂く為には、真の信心を分からせて頂く為には真の修行をしなければならん。
真の修行とは、神様が私共に求めたまう事を、さしてもらう事が真の修行である。その神様が私共に求め給う事は場合によっては、恥ずかしい思いをせなならん事もある。こうした方が自分の受けがいい事は分かっておるけれども。そういう事は無視しなければならない場合がある。行って、まるで行き損のような感じの時もある。けれどもです、それは成り行きを大事にしていっておる神様の思いを分からして頂こうとする。神様が求めたまう修行を本気でさせて頂こうと念願しておるから、それが出来る。
 それだから結果に於ては、みんなが驚くようなおかげが私の上には現れてくる訳なんです。いわゆるいつも良いものが産み出されていく訳なんです。懐妊の時、しっかり信心の帯をしよる。真の帯をするから、流産なしに次々と良いものが産み出されてくる訳なんです。そこんところを、昨日のお話を頂かれて難しかったところは、今日のお話を聞かれて、少しは分かられたと思うのです。同時に私共が、おかげは絶対なものだと、確信持ってすすませて頂かねばならんが、その絶対なものが絶対なものになる為に、懐妊の時に、腹帯をするより、真の帯をせよ。
 人間心を使う。人間の本心とか良心と言う、おかげとはそんなもんじゃない。真の心と言うのは、良心でもなければ本心でもない。こういう事をです。そんなら孟子様やら、孝子様は知られなかったと言う事になります。そこに教祖の信心の素晴らしい事が分かるでしょうが。天然と言ったような事は、よく知られたけれども。地念というところを知られなかった。天然地念、これが金光様の信心。それを教祖は、「天に任せよ、地にすがれよ」とも言うておられます。
 天に任せるという心、委ねるという心。そして地にすがると言う。地にすがらねばです。自然に起きてくる様々な問題もです。地にすがっておらなければ受けられない事が、沢山あると言う事。生神金光大神の御取次におすがりしておるから、そこを受け止めていけれる問題がいくらもあると言う事。そこから、良いものが産み出されてくるおかげ。いわゆる幸せにつながるおかげが頂けると思うのです。懐妊の時、心に真の帯をせよと言うのは、只今申しますような帯をもって、真の帯という事ですね。どうぞ。